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ゼロの未来;『あなたのその判断は99%自分の頭で考えていない』

ゼロの未来(吹替版)

ゼロの未来(吹替版)

  • 発売日: 2015/09/18
  • メディア: Prime Video

なんだか面白そうな設定、レトロさを押し出したSF感、テリー・ギリアム監督、と期待できる要素が揃っていたのだけど…

なんだかよくわからないうちに終わってしまった。

作り手のメッセージ

巷のレビューを見ると、人によって評価が大きく分かれており、刺さる人には刺さる(ターゲットがかなり絞られた上で制作されている)系の作品といった雰囲気。

というわけで、こういうときは作り手の解説(制作意図)を読むのが一番と思い、テリー・ギリアム監督のインタビュー記事を読んでみた。

eiga.com

テリー・ギリアム: 「我々が今生きる時代は、消費、物質主義にまみれ、その間に『生きている意味はなにか』など、本当に大切な問いをしなくなっている。そして、ただただ自分を忙しくさせている、それが現代人ではないだろうか。

蟻とか蜂は自分の存在意義など考えないだろう。現代社会はそういう人間ばかりが存在するんだ。

ソーシャルメディアが、我々を社会的昆虫(ソーシャルインセクト)、あるいは集団行動をする昆虫にしてしまったのではないかというのが、僕の論理なんだ」

聞き手の補足説明: そして、我々現代人は「“コネクテッド”(接続している)な世界に生きている」と表現し、「果たしてそこから逃げることができるのだろうか。あるいはそんな世界で人は1人になることができるのか、あるいは自分自身は誰なのかを考えてみるのが面白いんじゃないかと思ったんだ」と本作に込めたテーマを説明する。

とのことだった。

『すっげーわかるわー』という思いと、『既にそれに対する答えは自分の中で出ている(ので興味ないわー)』という思いがした。

それが、主人公コーエンに最初のうちは感情移入できたのだけど、だんだん『ふーん…、あー、そう』という程度のなんだか遠くの人を眺めるような見方に変わった理由な気がする。

あなたのその判断は99%自分の頭で考えていない

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美術館裏で見つけた癒やし系 (2009)

以前、秋葉原に降りたときに気づいたのだけど、

『街全体が、人の行動を恣意的にコントロールすることを目的として隅々まで設計されている』

ことに気づいて、田舎に比べて人の営みが洗練されていることに感動した。

同時に、『こうすれば、100%ではないけれど、ビジネスになる程度に一定割合で人の行動をコントロールできるのか』と、学ぶことが多かったのだけど…

それは裏返せば、『自分も今まで無意識に行動をコントロールされていた部分が少なくないのだな』と気づくキッカケになった。

自分では自らの頭で考えて動いているつもりでも、知らずしらずに、その判断をしようと思ったきっかけ、さらには、その判断の大部分が、外部からの情報によって成り立っている。

・・・

SNS上の自分の行動を振り返ってみると、外部からの情報は、その質(自分にとって有益か、無益か、単なるノイズか)によらず、すべからく自分の判断になにかしら影響を与えている雰囲気だったので、

『極限まで削ぎ落とそう。』

という結論に至った。*1

外部からの情報を全てシャットダウン、といっても、そもそも外部からの情報(≒外部とのつながり)をなくすわけではなく*2

外部からの情報のうち必要性がないもの、特に『自分から求めることなく自然と流れてくる情報』は捨てることにした。*3

自分以外のユーザーを全てミュート

外部からの情報を削ぎ落とすための方法の1つに、SNSの使い方を工夫している。一切の例外をつくらずに、

『自分以外のユーザーを全てミュートする』

それだけ。*4

タイムラインには自分の発言しか流れてこないのだけど、自分の場合、仕事以外に関する記憶力が著しく悪いこともあり、自分の発言を見返すだけで情報ジャンキーな自分の欲求(何でもいいから何か役に立つことを知りたい)は満たせている。

自分のことを知ると日々のちょっとした行動の改善につなげられるので、QOLの改善に役立つことが多くて、なにげに実益度は高い。

「他人につながるまでの距離」と「他人との距離」

あとは、リアルでの距離感に合わせて、友人の近況が気になったとき(週1とか月1くらいの頻度)には相手のタイムラインをざっと眺める、という使い方をしている。

これは『(たとえ親友でも)友人の近況を、毎日ときに毎時間聞き続ける、って何の罰ゲームなんだろう』と思ったのがきっかけ。さらに言えば、リアルの中高からの友人だと1年に1回連絡を取り合うくらいで十分…。

リアルでならやらないことをインターネット上だとやってしまうのは、自分を見失っている(他人との距離感がつかめてない)感があるなと思った。

インターネット上ではあらゆるものへのアクセスが容易ではあるけれど、自分と他人との距離が縮まるわけではないんだよなぁと。「他人につながるまでの距離」と「他人との距離」は意識して区別しないとマズイなと思った。

SNSは控えめに言っても受動的メディア

インターネット黎明期の頃は、『TVというメディアは受動的だからクソくらえだ』と叫んで自発的に動く人が多かったように思うのだけど、そういった人でさえ、SNSで受動的に動いている(が、本人は『自分から考えて自発的に動いている』つもりでいる)ように見えることがあったりすると、少し悲しい気持ちになる。

自分もつい数年前までそうだったし、今でも受動的に動いていることがあるし、そもそも人の習性に起因しているので、そこに良し悪しはないのだけど…。

SNSには、速報性の高さや、校正作業が入らないことによるメリットもある反面、

今のSNSは控えめに言っても受動的メディアにしか見えない。校正作業が間にはないので、表現方法や発言者の意図自体が洗練されておらず、TVより酷い部分をも抱えたメディアだなぁ…という印象。

*1:いつまで生きるのかよくわからないけど、限りある人生の時間は、やりたいことをやれるように有効活用したい。

*2:社会的動物として生きることそのものを否定することになるので、本末転倒感がある

*3:個人的に、『自分から求めてないのにやってくるものは、必ず疑ってかかるべき』という教訓があったりなかったりする。理由は事例により様々なのだけど…。ちなみに、裏返すと、『欲しいものは、必ず自分の手でつかみとれ』という話でジャンプ的。

*4:Twitterだとコメントも非通知にするとか、色々細々とあるけど、要するに設定できる範囲で全て『自分から見ようと思って見ないと、見えない』ようにしている。