割れ(不正入手したゲーム)についての批判記事かと思いきや、
『作品にお金を出すことの意味』『作品を楽しむことの意味』を考えさせられる、近年稀に見る秀逸な記事だった。
(以下、元記事を一部抜粋・引用)
もし仮に、あなたの友人が「割れ」をしていたとして、無料でゲームが手に入る環境でありながら、なぜわざわざ金を出してゲームを買うのかと聞いてきたとする。 私は恐らくこう答えるだろう。「自分の意思でゲームを選んでいるからだ」と。
そもそも、ゲームを遊ぶ上で必要になるコストには、金銭、時間、体力的余裕、技術など、いくらでも必要になる。ゲームによっては、友人や教養も必要になるだろう。 そんな中、実はゲームを遊ぶための「金銭」などコストとしては安いものなのだ。
と、お金の問題など仔細なものであると前置きした上で
むしろ、我々はゲームを遊ぶことで、映画を観るのと比較にならない「時間」、音楽を聴くのと比較にならない「労力」など、大きなコストを支払っていることを、忘れるべきではない。(一本の作品に100時間費やすなど、他のコンテンツでは考えられない。) …中略…それには、「ゲーム」と真摯に向き合う、「自分」が必要になる。
ゲームとは、自らの意志が試されるものであると定義されている。
そして、それを突き詰めれば
何故、我々はゲームを遊ぶのか。その問いに答えは、間違いなく、「このゲームが遊びたいから」であり、もっと言うなら、「このゲームを通して素晴らしい経験を味わいたい」からなのだろう。
であると締められている。元記事には、このあとも『なぜ割れが良くないか』について自説が続くのだけれども、
個人的にはこう思う。
素晴らしい体験を与えてくれる作り手には、その対価を払いたい、と。
そしてまた、素晴らしい体験を生む作品を生み出してほしい、と。
ゲームに限らず、アニメもドラマも本も*1、いかに素晴らしい体験を与えてくれるか、それこそがその作品の持つ尊みの源泉なのかなと思った。
*1:なんなればアウトドアも旅行でさえも